とりとめのない雑記

雑記。に遠く及ばない何か。

「ナツノクモ」  篠房六郎 著

 

先見性は充分ありました(2003年~2007年掲載作品)。

 

近未来ネットゲームのアバターを纏ったカウンセリングという設定や、魅力的な登場人物達のアイデンティティを求める群像劇は、現代でリメイクしてほしい作品です。

 

最終巻末に「描き残したことは色々あれどお話はひとまずここで終わります」と著者のメッセージがあります。ひとまずってことは続きあると期待していた時期もありました、淡く。

 

今でも、くるみ(現実の家族ごっこ)とリーゼ(ネット上の家族ごっこ)が交わる話の続きを読みたいと思っています。

 

 

この漫画を読み返したのはこの記事を読んだから。

 

note.com

 

バーチャルネットアイドルボーカロイドの隆盛を引継ぎ、世間からの受容を経て、理想の女性キャラ自体の自演をプロデュースするというバ美肉バーチャル美少女受肉)」が一定の支持を得られてきてます。

まさに故)富沢雅彦さんの「オタクは作中のヒロインを異性としてではなく、女性化した自分の憧れとして熱狂する」というロジックが、40年程たって具現化してきました。

 

架空のキャラクターになりきり自分の意見を発言させる手法は、当たり前ですがネット文化以前からもありました。

ただスマホの登場で、ネット文化がパソコン上から解放され爆発的進化をとげたように、デバイスの進化によって、存在がリアルタイムになってきたことによって「受肉」文化も爆発的進化をとげるでしょう。

 

性別や年齢は関係なく、バーチャルな世界で「魂」以外まったく異なる存在で生きていける可能性。

内面の有りようで外面は変わり、その外面からの影響で内面も変化してゆく世界。

LGBTのT区分でもなく、生物学的男女とイデア的男女が一人の中に同居する人間が認められる舞台が現れはじめました。

 

それでは生身に近い身体感覚でキャラを動かす世界がくると、自分の主体はどっちになるのでしょうか?主体は本人の気持ちの問題だったり、稼いでる方だったり?

 

ナツノクモ」はそんな二つの社会(リアルとネット)でのアイデンティティの有りようを予見させる漫画でした。

 

例えばジージャやミカオが象徴的。

カウンセリングを受ける側だった幼女キャラが、内面の変化とともにカウンセリングを手伝う大人側に回ったり

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若いキャラから老人キャラに変更したら仕草も変わったり

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またジージャは外装は大人でも、中身は年相応に性的に無頓着なところがあったり(中身が大人のイタカは「赤ちゃんプレイ」に嫌悪感丸出し)。そんなとこも予見的。

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反面、受肉したことで、もうひとつの現実に身体感覚をもって向き合わなくてはならない恐怖。

能力主義社会のエリートの無自覚な差別と、無力感と空虚な自尊心。

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どんな外装を纏っても、もう一つの現実で分かった、むきだしの空っぽの自分。

 

アレハンドロ・ゴンサレス監督の「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」やトッド・フィリップス監督の「ジョーカー」の妄想を知った後では、ゴローを笑えない。

押井守監督の「イノセンス」やテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」のように、誰かの作為で植え付けられた疑似記憶の方が、他責できる分惨めな自分の本質を見つめなおさずにすみ、ゴローもまだ救いがあったかもしれない。

 

そして

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「精神の動物園」で自分より弱者と思いマウントしてきた人達にも見放され、無価値な自分に絶望しての犯行。

現実の「親ガチャ」に理不尽な怒りをぶつけ、死体の転がる部屋でヘッドギアをつけてうずくまり、警察に発見されるまで仮想空間で自殺を繰り返す。

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秋葉原無差別殺傷事件京王線刺傷事件に近い精神構造。

生身の自分にも仮想空間でなりたかった自分にも両方に裏切られたら絶望しかない。

(辛いことだが)つまらない人間はどんな仮面をかぶっても、いずれ見透かされるのだ。

 

「現実×妄想」「現実×空想」の対立する対比構図ではなく、老若男女という区分すらなくなり「現実+もう一つの現実」の逃げられない並列する対比構造を提示したナツノクモは‥‥可能性あったよね。

 

もったいないというかもう少し頑張ってほしかったなと。

 

 

 

 

 

 

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リーゼの現実の家は裕福そうに見えず、ヤングケアラーっぽい描写もありました。

そんな中、ゲーム内の大量の写真(思い出)に囲まれている様は、リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」を想起させます。

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あれもアイデンティティを探るSF映画として秀逸でした。

重ね重ね面白いテーマを選んでただけに、ナツノクモの不完全燃焼は残念です。

 

 

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(雑記)

最近話題の表現規制フェミおばさん達も、世間体がなければ、受肉するとしたら若くてかわいい女の子を選ぶのが多数だと思う。

ルッキズムと言われようが、身なりを整えることは動物の本能であり、社会の要求でもあるから。


それとも威厳に満ちた人物のなりをして、持論を語るのでしょうか?

私には彼女達とゴローの違いはないようにも思えます。

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ただでさえネット上では才能ある人や素晴らしい実績で溢れているのに、そこに知識や才能や実績のない者が飛び込むには過酷すぎる。

いずれにせよ老若男女等の区分がなくなり、能力主義という、認めざるを得ない無慈悲な差別の中におかれた時、格差社会もますます拡大せざるを得ないよなあ。

 

 

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ネット社会で、生物的男女とイデア的男女が同居する人間が認められるとしたら‥‥デジタルトランスジェンダー、略してDTとか‥‥。

言ってみたかっただけです。

 

自分も気づかない内面に絶望するといえば、タルコフスキー監督の「ストーカー」があったねえ。

 

「おやすみシェヘラザード」に敬意を表し、映画の紹介を含め「ナツノクモ」の感想を書いてみました。

 

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(追記)

青識亜論さんの公開質問状読みました。

まさにその通りでしょう。

現実の肉体の年齢や性別を超えて、まったく異なる理想の身体になるという、新しいセクシュアリティを獲得した人々の意思と想いがこもったこの新しい文化に、「女性差別」のレッテルを貼りつけ、踏みにじろうとしているのです。

 

 

で、雑記で書いたことの繰り返しになりますが、分身すら否定されたらつらいよね。

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